昨日は京都で演奏でした。

帰りに清水寺に寄ったら元祖八ツ橋と名乗る店があり、

チョー意外な話を聞きました。


八ツ橋と言えば箏の世界の人は必ず

「八ツ橋というお菓子は八橋検校の名を取り、箏(琴)の形を

模したもの」

と説明するし、私もしてきました。


そこのお店の人は、、


「それは違う」


というのです。






詳細

八ツ橋の由来

昔むかし、伊勢湾がずっと入り込んでいて、今の知立市が生みに近く皮が蜘蛛手の様に

流れていた頃のことです。

三河の苦に、碧海郡に羽田玄喜というお医者さんがいましたが、病がもとで

突然世を去りました。二人の男の子とその母が残りました。

母は毎日海へ行き、若布を取って生活していました。ある日、母の帰りが遅く、

八歳と五歳になった二人の子は母恋しく、迎えに行き川でおぼれて死んでしまいました。

悲しんだ母は夫と子の菩提を弔う為、無量寿寺に入り尼となり、あの時もし川に橋さえ

あれあこんな不幸にあわずにすんだものを、何とかしてこの川に橋をかけたいと願い

続けました。

すると有る夜、夢の中に一人の僧が来て、「汝が心掛け最も善し、その志願を達せしめよう、

今この入り江の浦に橋が足るべき木がある。行きて取り来れ」と言ったかと思えば夢は覚めました。

不審に重いながら夢のお告げに従い行ってみると、本当に八枚の板が漂っていました。

尼は大喜びで、杭を利用して互い違いに八枚の板を渡して一つの橋を架けました。

その時、仁明天皇 (842年)5月でした。

その後、橋の板の数をそのまま「八ツ橋」と呼ばれ、その川には杜若の花が沢山

咲き乱れていたため、八ツ橋と杜若の名所となりました。

平安時代、京洛一の風流男 在原業平 朝臣 が東くだりのおりここで

「かきつばた」という五文字を句の上にすえて、「からころも」

きつつ なれにしつましあれば はるばる きぬる たびをしぞおもう」
(伊勢物語・謡曲「杜若」より)

ここに旅した先祖が、この親が子を思う心にうたれ、都に帰り、八ツ橋をかたどった米の

粉の煎餅を作り始めたのが元禄二年(1689)これが銘菓八ツ橋のはじまりです。

昔は手で延ばした為、もう少し分厚く平らな板状でした。明治の中ごろ中興の祖、

西尾為治の案により、 かさを出すために今のようなそりがつけられ、現在の形になりました。


西尾為治は明治42年(1901年)和菓子で外国博覧会において日本最初のグランプリを

受賞いたしました。

八ツ橋は、縁起が良い言葉であるゆえに、最上級の物には八ツ橋という名称が多くつけられ、

昔の人はこの言葉をよく用いてられたようです。

八ツ橋は今日のお公家さん方から天皇に謙譲され、長い年月をかけて口から口へと伝わり、

今の京名物八ツ橋となりました。

元祖八ツ橋

株式会社 八ツ橋屋西尾為忠商店



となるともしかして八橋検校というのは

「最上級」であるが故につけられた名前なのでしょうか。


謎はますます深まるばかり、、


↑八橋ショコラ激ウマですよ。


つづく


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